昭和40年03月23日 朝の御理解
真のおかげを頂いていく為に、久留米の初代、「天地神命に不足を言わず」。天地神命に不足を言わずと。私は成り行きを大事に、成り行きを尊ばせて頂くという事を申しますが。それはもちろん、天地神命に不足を言わずということも、成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にさせて頂くということ。その事を、真心で受けていくということ。ところがその自然と、対決という言葉を使わなければならない程にい、様々な成り行きがあるし、問題が腹の立つ問題。
いよいよ問題が、普通では受けられないような状態から、そこの所をその事と対決していくと、ですからその辺がよく分かっていかなきゃいけない。成り行きを大事に尊ばして頂くという事も、成り行きを、成り行きとある場合には対決していく。その事にいわば打ち勝っていく。それとも「元気な心で信心して行く」と教祖様は仰っておられます。そこからおかげの整理が出来、お徳が受けられると。
それでは、例によって御霊様のお祭りが今日は控えておる事で御座いますもんでしたから、まぁ3時近くまでかかりました。ですから、今日はもう眠ったと思ったらもう起きらなければならなかった。ですから、私は今朝の御理解はお話にその、小さい声ででも大祓い上げよったらその、そのまま眠ろうごたる、何とかせにゃならん。それで今日は皆さんお気付きになったでしょうし、もう力の限り大祓いを奏上させて頂いた。
もう心の底から一所懸命の、もうこれ以上の声は出されんという声で、大祓いを拝詞、共に奏上させて頂いた。これによって私は私のその信心の、例えば成り行きを大事にするというような事はです。もう寝むか時に寝るといったようなもんじゃないと私は思うです。ね。そういう場合私は、こうする事が本当だという事に対してそうは出来ん、もう出来ない、もう辛抱が出来ないようにある、ね、例えば言わねばおられん。
そうしなければおられないようにあるけれども、そこが私は対決というのじゃなかろうかと思う。その事に不足を言うたんじゃおかげにならん。「天地神命に不足を言わず」と。そこが私は対決していくという事はそんな事なのです。信心を進めてきますと必ず真心、真心という事を言われる。真心一つを持っておかげを受けられない事はないと。もしおかげが受けられない時には、真心がかけた時、それと一緒。
真心で成就し真で成就せん事はないと仰る。成就せんその時は真が欠けた、真心が欠けたと悟らにゃねとこう仰る。この辺の時が私は対決だと思うです。これだけしておるのにこれだけ真心を尽くしておるのに、そこにはもう信心の何物もない。本当にそれ程に出来とるかと言うたら、もう本当にそれこそ育つような事である。今日の御霊様のお祭り、霊祭のお話の時に、本当に年に春秋二回の御霊様のお祭に対して、遺族の者が子孫の者が先祖に対して、自分の思いを真心を現していくというのが御祭りである。
御霊様の御祭りである。ところがその真心というのがなかなか出せない。いかにも立派な重箱さげてきとるようにあるけども中は空といったような事が多い。どこどこの饅頭屋の整理箱一段、一杯饅頭入れてきとるようであるけども、実際は中は空といったような場合もあるんです。真心という物が空なんです。御霊様にはもう饅頭、頭下げてから(ひとり横切りよったら?)饅頭椛目に届けといて下さいち、それでもう済んだように思うておる。と言ってなら真心の出られぬ物を、ね。
それをまぁ例えばそれがそうではなくてから本当に真心を込めてお饅頭を作った、おはぎを作った、お寿司を作った。そして御霊様へと。としてもやはり特にはどういう不浄があるやら、真心がかけておるやら、それもまた厳密に言えば分からんのである。そこで今朝の私の御祈念のような在り方をとらせて頂いたらどうでしょうか。形だけの御祈念は出来た。いうなら出来たけれども心の中は眠たいで一杯である。
頭がボーっとなっておる。形の上のお供えは出来た。けれども中身は空といったような事であるかもしれません。そこで私なりに一生懸命なものを現せという事なんである。形の上だけでも。声だけででも、大祓いだけででも、拝詞だけでも。もう本当に、もうある限りの力をしぼって奏上させて頂け。そこに私は氏子の真心というか心意気というものを神様が受けて下さると言う事。ね。
例えて言うならばです。百円がたの饅頭にです、もう一丁百円がた一生懸命な物を添えるという事。いうならば。はや分かりやすく言うならば。この百円がたにはかわ、空の重箱のような感じがする。後の百円がたも、空であるかもしれんけど、せめて形だけにでも、私はいわば一生懸命今日大祓いを奏上させて頂いたようなもの。そこに一生懸命なものが伴うて、自分の体はもう疲れておる。心も疲れておる。
それを成り行きと思うちゃあ出来ん。それ程にその無い力を絞り、その自然といよいよ対決していく。そして思いにおいては負けてもです、形の上においては、一生懸命の形の上においては、負けないという所にです。神様はそこを補い、補うて下さる。そういう風に私は感じます。成り行きをいよいよ真心を持って、真心を持って受けていき、真心を持って尊ばせてもらい、大事にさせてもらい、合掌して受けていく。
事は分かっておるけれども心が疲れている、心がショックである。そういう時にはその事といよいよ対決して、よう元気な心をせにゃいかん。空威張りのようであっても、形だけのようであっても、足はもう重うてあげられんようであっても、そこを元気を出して神様に打ち向こうてこそ、そこを乗り切る事が出来る。その一生懸命の、いわば真心が欠けておっても、その一生懸命で神様は受けて下さる。
私はいつも成り行きを大事に尊ばせてもらうと、大事にさせてもらうという事と、もう一つ、天地と対決という事を申しますが、今日の御理解を頂いて、そこんにきを具体的に私自身が分かっておる気がするのです。本当にこれが神様の御都合だと。これが神様の御計らいの中にある事だと合掌して受けれれる信心。これが一番。 ところが受けれ、受けれない、受けにくい事がある。そういう時には対決である。
そして形の上においてでもそこん所を、そこん所が、私は三代様の仰る「泣き泣き辛抱しいしい」ちゅう所じゃなかろうかとこう思う。「泣き泣き辛抱しいしいに」というそこの所を神様が目出たもう。お受けたもう。それを真心じゃなくても、真心としてです、神様が受けて下さる。私はそんな風に、まぁこの、今晩の、今晩じゃない、今日の御祈念させて頂きながら、私感じたんです。
これだな。神様が受けて下さるのはこれだと。私の心にいつものようにそれこそ大きな声をしなくても神様には通う。心の中で言うても神様には通う。静かに静かに、有難い思いで、御祈念させて頂く時には、それこそ大祓いもいらん位である。して今日そういう事しよったら私は御神前で寝てしもうた。ね。そこん所を、いわば、外らせてもらうのである。それが私共の日常の、信心生活の上にもです、やはり同じような事が言えるのじゃないだろうかとこう思うのです。
そこの所をです、常に大事していかなければならん。ね。今日の霊様のお祭りに改めて、例えば皆さんが、例えば、もう、ありきたりな事じゃいかん。毎年、そっこんそこの事じゃから、それじゃいかん。そこに工夫をしなきゃいかん。ね。工夫をこらさなければ。練り出さなければ。ね。それでも実感として本当に霊様が喜んで下さるじゃろうというようなものが出来るなら、形の上で現していかなきゃいけん。そこに一生懸命を出していかなければいけない。まぁそんな風に思いますですね。
おかげを頂きますように。